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【アラベスク】  第2章 真紅の若葉



第2節 丘の上の貴公子 [1]




 霞流(かすばた)慎二(しんじ)に会ったのは、一度だけ。
 育ちの良さを思わせるその物腰。金持ちというモノに好感は持てないが、不思議と嫌悪感も沸かなかった。理由はわからない。

 今でもわからない。

「ちょっと、なんで黙ってたのよっ!」
 母にわき腹を小突(こづ)かれ、美鶴(みつる)はムッと眉間に皺を寄せる。
 ワザワザ知らせることでもないでしょう
 口には出さず、改めて室内を見渡す。
 案内された部屋は、白を貴重とした清潔感溢れる作りで、シングルベッドが二つの他に椅子やテーブルにタンスなどが備えつけられている。
 どれも端々(はしばし)に装飾が(ほどこ)されており、価値のわからない美鶴でも、高そうだということぐらいは理解できた。それらはさほどゴテゴテもしておらず、部屋の雰囲気を壊さぬ程度に控えているといったカンジ。
 奥の壁にはカーテンが引かれており、その向こうに窓があることを予測させる。
 歩み寄って覗いてみると、やはり足元までガラスになっていた。夜も遅いので景色はわからない。
「すごいねぇ」
 ため息混じりの声を背後に受け、振り返る。ボンッとベッドに身を投げる母と、視線がぶつかる。
「あるとこには、あるんだねぇ」
 うつ伏せになってその感触を楽しみながら、夢見(ゆめみ)心地(ごこち)で呟く。

 確かに、夢を見ているかのようだ。

 数時間前まで過ごしていた、下町のオンボロアパートとは比べ物にならない。
 母に釣られるようにして隣のベッドへ腰を下ろしたところに、軽いノックの音が響く。
「お着替えをお持ちしました」
 小さいがハッキリとした女性の声に、美鶴が立ち上がる。
 扉を開けると、女性が着替えを乗せた両手を軽く持ち上げた。
「あ、ありがとう」
 誰かが着替えを持ってきてくれることは、事前に聞かされていた。だが、やはり戸惑う。
 袖のふくらんだ紺のブラウスに白いエプロンの女性は一礼すると、扉に手をかけ閉じるよう促す。
 美鶴は黙って扉を閉じた。
 ホテルみたいだな
 渡された着替えに視線を落す。
「着替え?」
 起き上がりながら声をかける母を振り返り、部屋の奥へ戻った。
「どれどれ…」
 美鶴の腕から取り上げると、バサバサと広げ始める。
「うわっ、すごい。何これっ、サラサラじゃん。シルクじゃない?」
 手触(てざわ)りに驚嘆(きょうたん)しながら目を丸くする。
「うわーっ すごいっっ!」
「ちょっと…… ウルサイよ。静かにしてっ 聞こえるでしょうっ!」
 慌てて両手を広げる娘をよそに、母は一組の着替えを掴みあげると立ち上がる。
「じゃあ、先に使わせてもらうわねんっ」
 声を弾ませ、入り口とは別の扉の向こうへ消えた。しばらくしてまた別の扉の音が響き、ほどなくして軽快な水音が聞こえてくる。
 シャワーの音に混じる母の鼻歌にため息をつき、美鶴は再びベッドへ腰を下ろした。
 来客用とかって言ってたな。一つだけじゃないみたいだし。各部屋にお風呂がついてるのかな?
 すごいな
 ぼんやりと着替えに指を触れた。
 つやつやとした、少し光沢のあるピンクの上下。それとは別に濃灰のブラウスが二枚と、ズボンが二枚。一枚は薄い茶色。もう一枚は同じく薄い緑。どちらも柔らかく、麻かその類の素材でできていると思われる。
 ブラウスとズボンは明日の朝用ということだろう。さすがにこの薄汚れたジャージでウロウロはできない。
 三人並んで乗った車の後部座席でも、背広姿の霞流の隣で居心地の悪い思いをした。乗る前にできるだけ(すす)を払い落したつもりだが、座席を汚してしまったかもしれない。
 今でも、ベッドを汚していないか気にもなる。近くには椅子もある。だが、立ち上がろうという気が起こらない。
 気力がない…… ということなのだろう。
 座ったことで疲労が下半身に広がり、疲れていることを思い知らされる。
「すごいな」
 今度は口に出して言ってみた。
 霞流が金持ちであることはわかっていたが、金持ちというものがどういうものなのか、具体的に想像したことはなかった。
 だから、よろしかったら私の家へどうぞ、と言われた時も、まさかこんなところへ招かれるとは想像もしなかった。

「ちょっと、メチャ格好いいじゃんっ」
 目をキラキラさせる母に危険すら感じながらも、かと言って他に頼るアテもない。母が勤めている店のママだって、泊めてくれるという保障はない。
大迫(おおさこ)()(おり)ですぅ。美鶴の母ですっ」
 勝手に自己紹介をして話を進めてしまう母を止めるヒマもなく、二人は霞流の自宅へ案内された。
 セキュリティーのかかった門を通り過ぎてから数秒。ようやく辿り着いた玄関に、二人は絶句。
「日本じゃないみたい」
 バカな呟きとは思いながら、美鶴も同じようなことを感じた。
 家というより邸宅・豪邸といったカンジの建物内へ案内され、広々とした玄関ホールでポカンと口を開けているところへ、年老いた男性がやってきた。
「おや?」
 男性は美鶴を見て少し目を大きくしたが、それ以上は何も言わずに霞流へ一礼する。
「おかえりなさいませ」
「ただいま。部屋は準備できてる?」
 車の中で電話をし、大迫親子の部屋を準備させてくれていた。
「はい、ご用意いたしております」
 その言葉に霞流は無言で頷くと、大迫親子を振り返る。
「今日はお疲れでしょう。部屋へ案内させます。着替えもお持ちしましょう。ゆっくりお休みください」
 そう言ってにっこり笑い、思い出したように口を開いた。
「明日の朝はどういたしましょう? 何時に起きられますか?」
「えっと…」
 言われて美鶴は思案する。いつもなら六時半に起きて七時過ぎに家を出るけど、ここから学校までって、どれくらいかかるんだろう?
 そこまで考えて、美鶴は固まった。

 ―――― 明日、学校行けるのか?

 ぱちくりと瞬きする美鶴を見て、霞流は口元を緩める。
「せめて制服を用意しなければ、学校へ行くのは無理でしょう。明日はゆっくりされた方が良いですね。九時頃に朝食というのではいかがでしょうか?」
「朝食って…」
 食事まで世話になるのか?
 だが、じゃあどうするのだと問われたら、どうにもできないのが今の状況。
「えっと……」
 断ることも受けることもできずにうろたえる美鶴の隣で、母の詩織が真っ赤な口をニィ〜と吊り上げた。
「そんな、お世話になるんですもの。そちらに合わせますわ」
「そうして頂けるとありがたい」
 母の不気味な笑みをも優しく受け止め、霞流はホッとしたように少し視線を落した。
「九時では少し遅いかもしれませんが、祖父の朝食が終わってからの方が、気兼(きが)ねなく食事ができると思います」
「あら、おじいサマにもご挨拶したいわ」
 相手の言葉を真似て優雅に対応しているつもりなのだろう。だが似合いもしない敬語など、茶化しているようにしか聞こえない。
 いい加減にしろっ!
 苛立ちを必死に抑える。
 霞流は詩織の言葉を曖昧に流し、拒絶も承諾もしなかった。
「こちらへ」
 今まで静かに控えていた使用人らしき女性の言葉に、大迫親子は振り返る。
「お部屋へご案内いたします」
「では、明朝九時に」
 使用人の後に続いて二階へ案内される二人。その背中へ向かって、霞流は静かに声をかけた。







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